世界の料理図鑑 ロシア
シチー
щи シ Shchi
発酵させたキャベツの酸味だけで立つ。1000年以上、貴族も農民も同じものを食べてきた一杯。
モスクワの安食堂(ストロヴァヤ)でトレイを持って列に並ぶと、スープの寸胴が三つ四つ並んでいます。赤いのがボルシチ。その隣の、薄い黄土色をした、見た目のいちばん地味なやつがシチーです。
日本人はまずボルシチを取ります。分かります。でもロシア人が最も長く食べ続けてきたのはこちらです。ボルシチより古く、記録は9〜10世紀にさかのぼる。
地味な見た目のわりに、一口飲むと明確に「すっぱい」。この酸味がどこから来るのか——それがこのスープのすべてです。
- 国・地域
- ロシア全土。北部ほど酸味が強い傾向
- 分類
- スープ(キャベツ)
- 相場
- 250〜400ルーブル(約475〜760円)
- 主な材料
- 発酵キャベツ(または生キャベツ)、牛肉か豚の骨付き肉、じゃがいも、にんじん、玉ねぎ、月桂樹
- 辛さ
- 辛くない。酸味が主役
- 食べる場所
- 安食堂(ストロヴァヤ)、家庭料理系のカフェ
- ベスト時間
- 昼。夜は品切れのことがある
- 一人前
- 深皿1杯。黒パンが2枚ついてくる
- 支払い
- ロシア国内発行カードか現金。海外発行カードは使えない
- 所要
- 注文から1分。すでに煮えている
01一口目に来るもの
匙で一口すくうと、まず酸っぱさが来ます。レモンの酸味ではない。ヨーグルトに近い、まるい酸味です。
次に来るのが、くたくたに煮えたキャベツ。歯ごたえはもう残っていません。舌で潰れる。その柔らかさの中に、骨から出た肉の脂がのっている。
最後に、皿の縁にのせられたスメタナ(サワークリーム)を崩して混ぜます。酸味に酸味を足すのに、なぜか味は丸くなる。脂肪分が酸を包むからです。
香辛料はほとんど入っていません。塩と月桂樹とディルだけ。それでこれだけの味が出るのが、このスープの正体です。

02酸味の正体は「発酵」
シチーの酸味はトマトでも酢でもありません。発酵させたキャベツ——ザワークラウトと同じクヴァーシェナヤ・カプースタの乳酸発酵によるものです。
塩をふって重しをかけたキャベツが、数週間かけて酸っぱくなる。その汁ごと鍋に入れる。だからトマトで代用しても、あの味には絶対にならない。
生のキャベツで作る「甘いシチー」もあります。こちらは酸味が穏やかで、春から夏にかけて作られる。店で出てくるのはたいてい酸っぱい方です。
つまりシチーの味は、冬に野菜を失わないための技術そのものです。台湾の酸菜、韓国のキムチ、ドイツのザワークラウト——寒い土地はどこも同じ答えにたどり着いている。


「シチーと粥こそ我らの糧」
ロシアには「Щи да каша — пища наша(シチーと粥こそ我らの糧)」ということわざがあります。1853年のダーリのことわざ集に収録されている、古い言い回しです。
背景には、正教会の断食日が年間200日近くあったという事情があります。肉も乳製品も食べられない日が、1年の半分以上ある。
そこで肉なしのシチーが発達しました。キノコと発酵キャベツだけで、だしを取る。貧しい農民の家では水とキャベツだけの「空っぽのシチー(пустые щи)」を食べていた。
一方で貴族の家では、肉やキノコをたっぷり入れた「豊かなシチー(богатые щи)」を食べた。同じ名前の料理を、階級を越えて全員が食べていた——これがシチーの特異なところです。



第 一 章
竈(ペチカ)が味を決めていた
ロシアの竈の中に置かれた鋳鉄鍋(チュグノーク)。直火ではなく、余熱でじわじわ煮る
03竈で「煮る」のではなく「置く」
伝統的なシチーは、コンロで煮るものではありませんでした。ロシアの竈(ペチカ)の中に、鋳鉄の壺を突っ込んで放置するものだった。
ペチカはパンを焼いたあと、何時間も余熱が残ります。その中に壺を入れておくと、100℃に届かない温度で延々と煮えていく。これを「томление(トムレーニエ/じっくり寝かせる)」と呼びます。
だから具が煮崩れてとろとろになる。ぐらぐら沸かした鍋では、この食感にならない。
さらに、シチーは翌日のほうが旨いとされます。一晩置くと味が具に染みる。「昨日のシチー」はロシアでは悪口ではなく褒め言葉です。


04黒パンとセットで完成する
シチーには必ず黒パン(ライ麦パン)がつきます。これは付け合わせではなく、料理の一部です。
酸っぱいスープに、酸っぱいパン。ライ麦パンもサワードウ(酸種)で発酵させるので、同じ方向の酸味が重なる。これがロシアの味覚の基本設計です。
地方によっては、生ニンニクをこすりつけた黒パンを添える。スープに浸すのではなく、かじってからスープを飲む。
日本人にとっての「味噌汁とごはん」に、位置がいちばん近い。単独では完成しない前提の一皿です。


赤いのがボルシチ、地味なのがシチー。ロシア人が毎日食べているのは、地味なほうです。モスクワの安食堂にて
05どこで食べられるか
観光客がいちばん入りやすいのは、赤の広場のグム百貨店3階にある「Столовая №57(ストロヴァヤ57)」です。ソ連時代の食堂を再現した内装で、トレイを持って並ぶ方式。会計は1人1,000ルーブル以内に収まります。
チェーンなら「Му-Му(ムームー)」。牛の看板が目印で、モスクワ市内に何十店舗もある。スープ・肉・サラダ・コンポートで300ルーブル前後という口コミもあります。
「Грабли(グラブリ)」もフリーフロー式で、ビジネスランチが399ルーブル。スープ+メイン+副菜+パン+飲み物がつきます。
高級レストランにもシチーはありますが、これは安食堂で食べるべき料理です。1,000年間そうやって食べられてきたものなので。


06似ている料理
ポーランドのカプシニャクが最も近い。同じ発酵キャベツのスープです。
ドイツのザワークラウト・ズッペも同系統。ただしソーセージやベーコンの燻製香が強く、ロシアのシチーより輪郭がはっきりしています。
台湾の酸菜白肉鍋は、発酵させた白菜と豚肉という組み合わせ。発想はほぼ同じで、大陸を挟んで両端に同じ答えがある。
日本でいちばん近いのは粕汁かもしれません。発酵由来の酸味とコク、根菜、脂の乗った肉か魚。冬の、体を温めるための一杯という位置づけまで同じです。
07豆知識
・「щи」の語源には諸説あり、古ロシア語で「腹を満たすもの」を意味する語に由来するという説が有力です。
・ピョートル大帝は宮廷料理より素朴なシチーを好んだという逸話が残っています。
・冬は凍らせて塊で持ち運んだ。旅の途中で削って溶かして食べる、携行食でもありました。
・ロシア語で人をけなすとき「щи лаптем хлебает(草鞋でシチーをすする)」という言い回しがあります。田舎者、という意味。
・魚で作るシチーもあります。チョウザメを使った「Щи из осетра」は、かつての贅沢版です。
写真はすべて Wikimedia Commons より。各画像の作者とライセンスは以下のとおりです。
- 01/Щи зимние.jpg / Ostolob / CC0
- 02/Schi.jpg / Шнапс / Public domain
- 03/Щи из осетра.jpg / Pannet / CC BY-SA 4.0
- 04/Cabbage soup in a pot with a ‘bread hat’.jpg / Ekaterina Kvelidze / CC BY-SA 4.0
- 05/Shchi.jpg / Victoria Vasilieva / CC BY-SA 2.0
- 06/Wiki seminar Родники здоровья 19.jpg / ZUFAr / CC BY-SA 4.0
- 07/Peth-russian00.JPG / VladimirZhV / Public domain
- 08/Russia-Suzdal-MWAPL-House of Peasant of Average Means-3.jpg / Alex Zelenko / CC BY-SA 4.0
- 09/Furnaces-rus01.JPG / VladimirZhV / Public domain
- 10/Кусок карельского хлеба.jpg / George Shuklin / CC BY-SA 1.0
- 11/ЖИТО.jpg / Schekinov Alexey Victorovich / CC BY-SA 4.0
- 12/Belarus-SMFAL-Stove.jpg / Hanna Zelenko / CC BY-SA 4.0
- 13/Russian Cuisine IMG 4229.JPG / Deror_avi / CC BY-SA 4.0
価格は2026年8月時点のモスクワの相場の目安です。







