世界の料理図鑑 日本
アメフラシ
ベコ(隠岐) あめふらし Sea hare
紫の汁を出す、貝殻を失った軟体動物。隠岐の島ではこれを牛と呼び、茹でて酢味噌で食べる。
アメフラシ。磯遊びをしたことのある人なら、一度は見たことがあるはずだ。触ると紫の液を出す、ぶよぶよした生き物である。
食べる地域は限られている。島根県の隠岐諸島では「ベコ」と呼び、春から初夏に磯で拾って、内臓を取り、茹でて酢味噌で和える。角のあるぷっくりした姿が牛に見えたから、ベコ——東北や北陸で牛を指す言葉——なのだという。
食べた人の言葉を並べると、評価は割れる。「磯の香りが鼻に抜けて、ゆでたホッキ貝に似た心地よい歯ざわり」。あるいは「サザエとアワビの中間の味を十倍に薄めたような、コクのないペラい味」。どちらも本当なのだろう。
- 国・地域
- 日本。島根県隠岐諸島がもっとも有名。千葉県大原周辺、鳥取・鹿児島の一部でも
- 分類
- 郷土の珍味。軟体動物(後鰓類)
- 相場
- 市場には流通しない。磯で採るか、宿・居酒屋に頼んで出してもらう
- 主な材料
- アメフラシ、味噌(隠岐では自家製のこじょうゆ味噌)、酢
- 辛さ
- 辛くない。酢味噌の酸味が主役
- 食べる場所
- 隠岐の島町の家庭・旅館。事前に相談すれば出してくれる宿がある
- ベスト時間
- 春から初夏。産卵期に磯へ集まる時期
- 一人前の目安
- 小鉢に薄切りで数枚。茹でると五分の一ほどに縮む
- 食べ方
- 茹でて薄く切り、酢味噌で和える。干して煮付けにも
- 近い料理
- ホヤ、ナマコ、サザエ、タコ
01一口目に来るもの
薄く切られて、小鉢に盛られている。色は灰褐色で、酢味噌が上からかかっている。見た目では、貝の身なのか何なのか判断がつかない。
口に入れると、まず磯の香りが立つ。潮と海藻の匂いだ。噛むと、ジョリッ、あるいはコリッという歯ざわりが来る。茹でたホッキ貝に似ている、と表現した書き手がいる。同時に、どこかねっとりした感触も残る。
問題は、その先だ。噛み進めても、味そのものはあまり出てこない。サザエやアワビの方向の風味はたしかにあるのに、それがずいぶん薄い。「コクも柱もないペラい味」と辛口に書かれることもある。
だから隠岐では、必ず濃い味をつける。自家製の味噌に酢を合わせた酢味噌で和えるか、干してから醤油で一時間ほど煮る。素材の味を味わう食べ物ではなく、食感と磯の香りを味わう食べ物なのだ。そう割り切ると、この一皿はとたんに旨くなる。


第 二 章
牛と呼ばれた海の生き物
隠岐・知夫里島の赤壁
02ベコという名前
隠岐諸島では、アメフラシを「ベコ」と呼ぶ。ベコは東北や北陸で牛を指す言葉である。
由来は姿だ。頭に二本の触角が立ち、体がぷっくりと丸い。海の中でそれを見ると、たしかに小さな牛が寝そべっているように見える。同じ生き物を、英語圏では耳に注目してSea hare——海のウサギ——と呼んだ。牛とウサギ。国によって、まるで違う動物に見立てられてきた。
日本語の「アメフラシ」の由来には二説ある。刺激を受けたときに出す紫の液が海中で広がる様子が雨雲のようだから、という説。もう一つは、雨のときに岩場へ集まるから、という説だ。隠岐では「梅雨どきがシーズン」と言われるので、後者にも実感の裏づけがある。
島根県の公式の紹介では、アメフラシを食べるのは島根・鹿児島・千葉・鳥取のごく一部だけ、とされている。千葉県大原の周辺では「ゴザラ」と呼ぶ。


03正体は、貝である
分類でいうと、アメフラシは軟体動物の腹足綱、後鰓類の仲間だ。つまり巻貝の親戚である。貝殻はあるにはあるのだが、退化して体の中に埋もれてしまっている。
日本の沿岸で見かけるものは15センチ前後が多く、大きな個体は30センチを超える。水深1〜3メートルの浅いところを這い、アオサなどの海藻を食べる。雌雄同体で、繁殖期には数匹が連なって交尾する姿が見られる。
紫の液は、紫汁腺という器官から出る。目くらましの煙幕であり、同時に「まずいぞ」という警告でもある。色の元は食べた海藻に由来する。
産卵期には、黄色い麺のような卵塊を大量に産む。これが「海そうめん」だ。一匹が数万個を産み、二週間ほどで孵化する。



04磯で拾い、内臓を出す
アメフラシ漁、というものは基本的に存在しない。春から初夏、磯や防波堤のあたりを歩いて拾う。市場魚貝類図鑑も「流通しない」と記している。売っている物ではなく、採りに行く物なのだ。
隠岐でのさばき方はこうだ。腹に逆さ包丁で切れ目を入れ、表と裏をひっくり返す。体内に残る赤い部分——貝殻の名残と内臓——を取り除き、流水で腹をよく洗う。そして水から茹でる。
ここを雑にやると失敗する。内臓を破れば紫の液が身に移り、強い臭みが残る。だから漁師や島の人は、拾ったその場でさばいて洗う。韓国では小麦粉と塩で揉んでぬめりを落とす方法が使われている。
茹でると、大量の水分が出る。だから水は足さなくていい。そして激しく縮む。二〇センチから三〇センチあったものが、四センチほどになる、と韓国の資料は書いている。おおよそ五分の一だ。この落差が、この食材の名物でもある。


05茹でると五分の一になる
隠岐の定番は、茹でたものを薄く切って酢味噌で和える食べ方である。使うのは大豆と麦麹で仕込んだ自家製の「こじょうゆ味噌」。地元の味噌の甘さと酢の酸味が、薄い身の味を持ち上げる。
もう一つの定番が、干してからの煮付けだ。干物にすると最初はゴムのように硬いが、醤油で一時間ほど炊くと柔らかくなり、噛むとスポンジのように旨みが絞り出される。こちらのほうが「食べた」という手応えは強い。
茹で汁につけたまま一晩置くと柔らかくなる、という家庭の知恵もある。要するに、この食材は加熱と時間の使い方がすべてだ。

06卵は、食べてはいけない
ここは正確に書いておきたい。アメフラシの卵塊「海そうめん」を生で食べて、重い急性肝障害を起こした症例が医学誌に報告されている。十三歳の男児が生食し、嘔吐が続き、肝臓の細胞が部分的に壊死した。原因物質はアプリシアニンとされている。
また、アメフラシは海藻を食べる生き物なので、有毒な藻類やシアノバクテリアを食べた個体は体内に毒を溜め込むことがある。アプリシアトキシンという毒はアメフラシから発見されて命名されたが、実際に作っているのはシアノバクテリアで、アメフラシは餌から溜め込んでいるだけだ。名前のほうが濡れ衣なのである。
体を食べる場合も、内臓は必ず除く。そして「ベコを食べると蕁麻疹が出る人がいる」という話は島でも語られている。疫学的な裏づけがある話ではないが、初めて食べるなら少量から試すのが賢い。
大日本水産会の魚食普及サイトは、情報が少ないことを理由に実食を見送っている。自分で磯から拾って自己流で食べる、というのは勧められない食材だ。

07どこで食べられるか
店で普通に注文できる料理ではない。隠岐の島町の旅館「松浜」では、事前に強く頼んでおけば出してくれた例がある。宿の人いわく「アメフラシ目当ての予約は五年ぶり」だったという。
つまりこれは、行けば食べられる料理ではなく、頼んで、待って、運が良ければ出てくる料理である。時期は春から初夏。隠岐へはフェリーか高速船、あるいは隠岐空港へ飛ぶ。
通販は事実上ない。「海そうめん」という名前で売られている商品はほぼすべて紅藻の海藻で、アメフラシの卵ではない。買い間違えないよう注意したい。


08記憶の研究を変えた生き物
この生き物には、もうひとつの顔がある。神経科学の世界では、アメフラシは超一級のスターなのだ。
理由は神経細胞の大きさにある。アメフラシの神経細胞体は直径200〜1000マイクロメートル。哺乳類の十倍ほどあり、肉眼でも見える。一つひとつの細胞に電極を刺して、何が起きているかを直接観察できる。
エリック・カンデルはこの利点を使い、アメフラシのエラ引き込み反射が「慣れる」現象を調べ、シナプスの強さが変わることが記憶の正体であることを示した。2000年のノーベル生理学・医学賞である。
隠岐の小鉢に酢味噌で和えられているものと、人類が記憶の仕組みを理解するために使った実験動物は、同じ仲間だ。食べ物としての知名度と、科学史における重要性が、これほど食い違う生き物も珍しい。

09豆知識
「海そうめん」という言葉は二つの物を指す。アメフラシの卵塊と、紅藻の一種だ。通販で買えるのはほぼ後者である。
古代ローマには、皇帝ティトゥスが弟ドミティアヌスにアメフラシで毒殺された、という伝承がある。地中海のアメフラシは食材というより毒として認識されていたらしい。
韓国では「군소(クンソ)」と呼び、釜山や慶尚南道の沿岸で祭祀の供物として膳に上る。中国の福建・広東では卵塊を「海粉丝」として食べる文化がある。日本より、むしろ韓国のほうが食文化としてははっきりしている。
隠岐では茹でて冷凍保存しておき、必要なときに刻んで柚子味噌で和える、という使い方をする家庭が多い。日常の惣菜ではなく、少しだけハレの側にある珍味だ。


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写真の出典
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0 Aplysia fasciata in the Mediterranean.jpg/Cisamarc/CC BY-SA 3.0/Wikimedia Commons
1 ジャノメアメフラシ?(馬毛島).jpg/Ffish.asia/CC0/Wikimedia Commons
2 Aplysia punctata 13254918.jpg/Bernard Picton/CC BY 4.0/Wikimedia Commons
3 Black Sea Hare (Aplysia vaccaria).JPG/Bibliomaniac15/CC BY 3.0/Wikimedia Commons
4 Dotted sea-hare (Aplysia punctata).jpg/Pierre mkrs/CC0/Wikimedia Commons
5 Aplysia eggs by Nick Longrich.jpg/NickLongrich/CC BY-SA 4.0/Wikimedia Commons
6 Aplysia juliana.jpg/Chaloklum Diving/CC BY 3.0/Wikimedia Commons
7 Sea hare, Aplysia dactylomela, 14 04 2009 4-56pm.jpg/Scott A-P Muzlie/CC BY 3.0/Wikimedia Commons
8 Svenska vetenskapsakademien handlingar (1906) (14782807502).jpg/Kungl. Svenska vetenskapsakademien/No restrictions/Wikimedia Commons
9 Svenska vetenskapsakademien handlingar (1906) (14596647327).jpg/Kungl. Svenska vetenskapsakademien/No restrictions/Wikimedia Commons
10 Sensitization in Aplysia californica.png/Drgububu/CC BY-SA 4.0/Wikimedia Commons
11 Chibu sekiheki.jpg/Navian/Public domain/Wikimedia Commons
12 Oki-view from ferry to Chiburijima.jpg/Yuvalr/CC BY-SA 4.0/Wikimedia Commons
13 View from south of Chiburijima(2).jpg/Yuvalr/CC BY-SA 4.0/Wikimedia Commons
14 Chiburijima’s kuri port.jpg/Yuvalr/CC BY-SA 4.0/Wikimedia Commons
15 Isokaze okikanko.jpg/Kuruman/CC BY 2.0/Wikimedia Commons
16 Oki Abalone (Nishinoshima).jpg/Yuvalr/CC BY-SA 4.0/Wikimedia Commons
17 Oki islands maps at Mt. Akahage.jpg/Yuvalr/CC BY-SA 4.0/Wikimedia Commons
参考にした資料
市場魚貝類図鑑「アメフラシ」
dancyu「味噌和えが旨い隠岐の島の貴重な食材|怪魚の食卓②」
デイリーポータルZ「隠岐の島でアメフラシを食べる」
島根県公式 隠岐ガイドブック コラム
大日本水産会 魚食普及推進センター「アメフラシを食べ・・・る??」
「“アメフラシ”の卵を生食後, 急性肝障害を来した1例」肝臓 46巻11号
나무위키「군소」(韓国のクンソ)
Sea Slug Forum「What are Sea Hares?」
Wikipedia「アメフラシ」
※日本産アメフラシ(Aplysia kurodai)の自由利用可能な写真がないため、同属の別種や日本の海で撮影された近縁種の写真を使い、キャプションでその旨を明記しています。






