完全道中記 ―― 第一号 特集
東京からマッターホルンへ、
写真一〇〇枚の旅。
空港のチェックインから、標高三二六〇米の登山口まで。時間と値段と匂いつきで、あなたを現地へ連れて行きます。読み終わったら、行ってきた顔をしてください。
い ま こ こ
これは「いつか行く人」のための旅行案内であると同時に、「今日は行けない人」のための旅そのものです。だから細かいことまで全部書きます。飛行機は何時間か。列車は何番線か。チーズフォンデュはいくらか。
- 旅の全長
- 東京 → チューリッヒ → ベルン → フィスプ → ツェルマット → ゴルナーグラート → ヘルンリ小屋(約9,800km+標高3,260m)
- 総日数
- 7〜8日間が標準(移動2日・ツェルマット4〜5日)
- 総予算
- 1人 25〜40万円(航空券13〜25万・宿1泊2名2.5〜6万・山岳交通2〜3万・食費1日6千〜1万円)
- 時差
- マイナス8時間(夏はマイナス7時間)。向こうの昼は日本の夜
- お金
- スイスフラン(CHF)。1CHF=約200円(2026年8月時点の目安)。カードがほぼ全て使える
第 一 章
出発。
十三時間の空の上
羽田/成田 → チューリッヒ 直行約13〜14時間・13〜25万円
い ま こ こ
チューリッヒへは直行便で約13時間。夕方に日本を出ると、同じ日の夜にスイスに着きます。時計の上では6時間しか経っていない。この「時間を巻き戻す感覚」が、旅の最初のごちそうです。


スイスの航空会社なら、着陸前にチョコレートが配られます。かごから一粒つまむとき、旅はもうスイスに入っています。

第 二 章
チューリッヒ空港。
地下に駅がある
入国15〜30分・駅は地下1分・コーヒー CHF 5前後
い ま こ こ
チューリッヒ空港の良さは「小ささ」です。入国審査は空いていれば15分。両替もSIMも到着ロビーで済み、そして駅がターミナルの真下にあります。スーツケースを転がしたまま、雨に濡れずに列車へ。



エスカレーターで地下へ降りると、赤と白の壁画が迎えるホームに出ます。ここから先、スイスの移動はぜんぶ鉄道です。切符は自動券売機(日本語あり)かSBBアプリで。


乗り継ぎの前に、まずこれを食べてください。空港駅へ降りる前に、到着ロビーのベーカリーでプレッツェル(CHF 4〜6/約800〜1,200円)を買う。表面の岩塩がじゃりっと歯に当たり、そのあとに重曹で焼いた独特の香ばしさが来ます。生地はみっちり詰まっていて、噛むほどに小麦の甘みが出る。日本のパンとは別の食べ物です。
コーヒーはCHF 4.5〜6(約900〜1,200円)。スイスでは「シャーレ」と頼むとカフェオレ、「エスプレッソ」は小さいカップ一杯。ミルクは必ず別添えの小瓶で来るので、自分で注ぎます。


第 三 章
特急で南へ。
車窓が仕事を始める
空港 → フィスプ 約2時間・乗換0〜1回・2等 CHF 80前後
い ま こ こ
チューリッヒ空港からは特急でおよそ2時間、首都ベルンを経てフィスプへ。スイスの特急は全席自由・改札なし。座って待っていると車掌が検札に来ます。2階席の右側に座ってください。トゥーン湖とアルプスの前衛が右窓に流れます。


車内で食べるもの。スイスの特急には食堂車がつくことがありますが、多くの人は駅のキオスクで買い込みます。定番はビュンドナーフライシュ(干し牛肉)CHF 18〜26/約3,600〜5,200円——紙のように薄く削られた赤黒い肉で、噛むと塩気のあとに牛の旨みがじわっと戻ってくる。乾いた山の空気で数か月かけて熟成させたもので、ハムより濃く、ジャーキーより上品です。
飲みものはリヴェラ CHF 3.5〜5(約700〜1,000円)。乳清(ホエイ)から作る炭酸飲料で、スイス以外ではほぼ売っていません。ほんのり乳っぽく、後味は妙にすっきり。最初は戸惑いますが、3日目には毎日買っています。



第 四 章
フィスプで赤い電車に。
谷が狭くなっていく
フィスプ → ツェルマット 1時間07分・2等 CHF 46(往復92)
い ま こ こ
フィスプ駅の同じホーム向かいに、赤い小さな電車が待っています。マッターホルン・ゴッタルド鉄道。ここから1時間、線路は川を遡り、崖を縫い、ぐんぐん高度を上げます。急坂ではレールの間の歯車(ラック)が噛む音がする。


もう帰り道が分からない。それでいい。
第 五 章
ツェルマット着。
ガソリン車のいない町
標高1,620m・駅からホテルへは電気タクシー CHF 15前後 or 徒歩
い ま こ こ
終点ツェルマット。ホームに降りると空気が一段冷たく、どこかで馬の蹄の音がします。1961年からガソリン車進入禁止のこの町では、駅前に並ぶのは箱型の電気タクシーと、ホテルの馬車。



駅から目抜き通りを5分歩けば、正面の空に「あの三角」が見えます。ここから先の町歩き・夕食・登山鉄道・湖・登山口は、後半へ。

※ 本記事の料金・時刻は2026年8月時点の目安です。運賃・営業は変動します。出典:ゴルナーグラート鉄道/SBB/各施設公式の公表値をもとに構成。
荷物を置いたら、まず一杯。標高1,620mまで上がってくると、東京から来た体は少しふわふわしています。テラス席で頼むのはビール(CHF 6〜9/約1,200〜1,800円)か、寒い日なら大麦のスープ「ゲルステンズッペ」CHF 12〜16(約2,400〜3,200円)。
このスープが効きます。大麦とニンジンと角切りの干し肉を、白っぽく濁るまで煮込んだもの。一口目はミルクのようにまろやかで、そのあとに燻製肉の塩気と香りが追いかけてくる。粒の残った大麦が舌に転がり、体の芯が温まる。山の食堂では必ずパンが付いてきて、浸して食べます。


第 六 章
町を歩く。
木の家、鐘の音、坂の匂い
バーンホフ通り約1km・旧市街まで徒歩10分・水は水道水でOK(無料でおいしい)
い ま こ こ
荷物を置いたら、まず目抜き通りへ。バーンホフ通りは駅から教会まで約1km、時計店とスポーツ用品店とカフェが並び、正面にずっと「あの山」が見えています。歩行者と電気カートしかいない道は、想像より静かです。


一本裏へ入ると空気が変わります。旧市街ヒンターデルフには、16〜18世紀の穀物倉「シュターデル」が数十棟。柱の上の丸い石はネズミ返し。生活道路の脇に、博物館級の建物が普通に建っています。





朝はパン屋から始めます。7時、まだ観光客が起きていない時間の目抜き通りに、バターの匂いが流れています。買うのはツォプフ(編みパン)CHF 5〜8/約1,000〜1,600円。卵とバターをたっぷり使った、日曜の朝の定番です。
裂くとふわりと湯気が上がり、内側が絹のように白い。ちぎった断面はしっとりして、噛むと卵の甘みとバターの香りが順番に来る。何もつけなくてもいい、というより、つけないほうがいい。地元の人はこれにバターとアプリコットジャムを塗ります。
そしてビルヒャーミューズリー CHF 9〜14(約1,800〜2,800円)。オートミールを牛乳とヨーグルトでふやかし、すりおろしリンゴとナッツを混ぜたスイス生まれの朝食。甘さは控えめ、酸味が主役。りんごの粒がしゃりっとして、ナッツが香ばしい。これで山に登る体力を作ります。



第 七 章
夜のチーズ。
糸を引く一口目
フォンデュ CHF 28〜34(約5,600〜6,800円)・ラクレット1枚 CHF 9〜13(約1,800〜2,600円)
い ま こ こ
一日歩いた夜は、チーズです。ヴァレー州はチーズの本場で、この谷で食べるべきものは三つに絞られます。
チーズフォンデュ(1人前 CHF 28〜34/約5,600〜6,800円・2名から)。老舗Whymper-StubeやChalet Restaurantが定番です。運ばれてくるのは、直火にかけた陶器の鍋(キャクロン)でぐつぐついう黄土色の液体。
角切りのパンをフォークに刺し、鍋の底まで沈めて、8の字にゆっくり回してから引き上げる。糸がすうっと伸びて、切れる。口に入れると、まず白ワインの酸味と青白い香りが立ち、遅れてチーズの塩気とコクが来ます。グリュイエールとヴァシュランの二種混合が定番で、店ごとに配合が違う。ニンニクを鍋に擦り込んであるので、後味に軽い辛みが残ります。
パンを鍋に落とすと罰ゲーム——次の一杯を奢る、という古い遊びが今も生きています。飲みものは白ワインか温かい紅茶。冷たい水はチーズが胃で固まるので避ける、というのが土地の言い伝えです。



二日目の夜はラクレット(1枚 CHF 9〜13/約1,800〜2,600円)。Restaurant Julenなどが有名です。半円のチーズの断面を専用の機械で熱し、溶けた表面をナイフでこそげ落として皿に落とす。
皿に着地した瞬間が食べどきです。熱すぎて湯気が立ち、表面がぷつぷつと泡立っている。茹でたジャガイモに絡めて、小さなピクルスをかじる。一口目は驚くほど塩辛く、次に牛乳の甘さが来て、最後に焦げた縁の香ばしさが残ります。いちばんうまいのは焦げた縁。5〜6枚で満腹になりますが、3枚目あたりで「あと1枚」が止まらなくなります。


三つめはロシュティ(CHF 19〜26/約3,800〜5,200円)。千切りジャガイモをフライパンでバターごと焼き固めた、スイスの国民食です。外側はかりっと音がするほど焼き締められ、中はほくほく。バターの香りが強く、それだけで一皿になります。
山小屋の昼にはこれか、アルプラーマグローネン(CHF 22〜28/約4,400〜5,600円)。マカロニとジャガイモを一緒に茹で、チーズと生クリームで和え、上から揚げ玉ねぎを散らした「山のマカロニチーズ」です。横に必ずリンゴのソースが添えられる。これを混ぜるのが正式で、最初は戸惑いますが——甘酸っぱさがチーズの重さを切ってくれる。混ぜた瞬間に納得します。



チーズに飽きたら肉へ。チューリッヒ風クリーム煮(CHF 38〜48/約7,600〜9,600円)は仔牛の細切りを白ワインとクリームで煮たもので、酸味のあるまろやかさ。必ずロシュティが添えられます。コルドン・ブルー(CHF 34〜44/約6,800〜8,800円)はハムとチーズを挟んだカツレツで、切るとチーズが流れ出す。皿からはみ出す大きさで出てくるので、覚悟して頼んでください。



締めの甘いもの。メレンゲ&二重クリーム(CHF 11〜15/約2,200〜3,000円)は、焼いた砂糖の塊に濃厚な生クリームを添えたもの。メレンゲはさくっと崩れて口の中で消え、クリームはスプーンが立つほど固い。甘さは容赦ありませんが、山を歩いた日には正しい選択です。
持ち帰るならヌストルテ(1切れ CHF 6〜9/約1,200〜1,800円、丸ごと CHF 25〜35/約5,000〜7,000円)。クルミをキャラメルで固めてタルト生地で包んだグラウビュンデン地方の菓子で、日持ちするので土産に最適。ざくっとした生地の中から、噛むほどにキャラメルの苦甘さとクルミの油が出てきます。



※ 2026年8月時点の目安(1CHF=約200円換算)。ツェルマットは山岳リゾートのため街より2〜3割高め。節約するなら駅前のスーパー「Coop」「Migros」——惣菜やパンが半額以下で買え、宿で食べる旅行者も多い。チップは義務ではなく端数切り上げ程度で十分です。
第 八 章
朝焼けを見てから、
歯車の鉄道で3,089mへ
ゴルナーグラート鉄道 33分・夏季往復 CHF 132前後(冬季96・スイストラベルパスで半額)
い ま こ こ
朝5時台、ホテルの窓かバルコニーで待つ。夜色の空の中、山頂だけがオレンジに点火する数分間——アルペングリューエン。目覚ましをかける価値は、あります。
朝食後、駅前のゴルナーグラート鉄道乗り場へ。1898年開業の登山電車は、ラック(歯車)を噛ませながら森林限界を越えていきます。進行方向右側の席へ。33分間ずっとマッターホルンが併走します。






CHF 12のスープが、人生のベスト3に入ってしまう標高。
3,089mで飲む一杯。展望台のレストランは、正直に言えば高い。ホットチョコレート CHF 7〜9(約1,400〜1,800円)、スープ CHF 12〜16(約2,400〜3,200円)。でもここで払っているのは、飲みもの代ではなく「窓の外」の代金です。
ホットチョコレートは、日本のココアとは別物です。粉ではなく板チョコを温めた牛乳に溶かすので、飲むというより流し込む濃さ。カップを持つ手が温まり、冷えた指先に血が戻ってくる。氷点近い展望台では、これが一番の贅沢になります。
軽く済ませるなら売店のセルヴラとゆで卵のセット CHF 10〜15(約2,000〜3,000円)。標高で気圧が低いぶん、なぜかソーセージの皮がよく弾けます。


第 九 章
湖をつないで下る。
五つの鏡のハイキング
5湖ウォーク 約9.8km・2時間30分〜/スネガ地下ケーブル 往復CHF 26前後
い ま こ こ
午後は歩いて下ります。定番は「5湖ウォーク」。ステリゼー、グリンジゼー、グリュンゼー、メスゼー、ライゼー——五つの湖を数珠つなぎに、それぞれ違う角度の「逆さマッターホルン」を拾っていくコースです。





道はよく整備され、道標の黄色い看板が行き先と所要時間を教えてくれます。水筒・帽子・薄手のダウンだけ忘れずに。売店は途中にalmostありません——山小屋レストランが2軒だけ。
第 十 章
登山口へ。
ここから先は、登る人の領域
マッターホルン・エクスプレスでシュヴァルツゼーへ 約20分・CHF 38〜/ヘルンリ小屋まで徒歩約2時間
い ま こ こ
最終日、ゴンドラ「マッターホルン・エクスプレス」で標高2,583mのシュヴァルツゼーへ。黒い湖のほとりに小さな白い礼拝堂が建っています。ここが、一般の旅行者が「山の懐」に触れられる最深部への入口です。


湖から先、ヘルンリ稜へ続く道は約2時間の岩まじりの登り。ハイキングの装備で行ける最後の区間です。たどり着くヘルンリ小屋(3,260m)は、初登頂の1865年から続く登山基地。テラスのスープとケーキは登山者でなくても注文できます。


登山口の風に当たれば、山は自分のものになる。
第 十 一 章
夜。そして、
いまの山を見る
光害の少ない谷では、夏なら天の川が肉眼で見えます。そして日本に帰ってからも、この山には会えます。下のライブカメラは現地の「いま」。日本時間の15時〜翌1時ごろが、向こうの昼です。
映像:SurveillanceMap LIVE(YouTube)。配信は予告なく停止することがあります

附 ―― 写 真 帖
※ 2026年8月時点の目安(1CHF=約200円換算)。スイストラベルパス(8日 CHF 419〜)利用時は鉄道・登山鉄道が無料〜半額になるため、山岳交通が多い行程では元が取れることが多い。最新は各公式サイトで。
本文で使いきれなかった旅の断片、四十八葉。クリックせず、ただ眺めるための頁です。
















































※ 2026年8月時点の目安。スイストラベルパス(8日 CHF 419〜)利用時は鉄道・登山鉄道が無料〜半額になるため、山岳交通が多い行程では元が取れることが多い。最新は各公式サイトで。
世 界 の 料 理 図 鑑
この旅で食べたスイス料理は、1品ずつ図鑑ページにしています。味・食感・食べ方の作法・注文のしかた・歴史まで、写真15枚で。
チーズフォンデュ(Käsefondue) CHF 28〜34(約5,600〜6,800円)→ラクレット(Raclette) 1枚 CHF 9〜13(約1,800〜2,600円)→ロシュティ(Rösti) CHF 19〜26(約3,800〜5,200円)→アルプラーマグローネン(Älplermagronen) CHF 22〜28(約4,400〜5,600円)→ケーゼシュペッツレ(Käsespätzle) CHF 21〜25(約4,200〜5,000円)→チューリッヒ風クリーム煮(Zürcher Geschnetzeltes) CHF 38〜48(約7,600〜9,600円)→コルドン・ブルー(Cordon bleu) CHF 34〜44(約6,800〜8,800円)→ビュンドナーフライシュ(Bündnerfleisch) CHF 18〜26(約3,600〜5,200円)→ヴァレー風前菜盛り(Walliser Teller) CHF 24〜32(約4,800〜6,400円)→セルヴラ(Cervelat) CHF 12〜18(約2,400〜3,600円)→ゲルステンズッペ(Bündner Gerstensuppe) CHF 12〜16(約2,400〜3,200円)→ツォプフ(Zopf) CHF 5〜8(約1,000〜1,600円)→ビルヒャーミューズリー(Birchermüesli) CHF 9〜14(約1,800〜2,800円)→メレンゲと二重クリーム(Meringue mit Doppelrahm) CHF 11〜15(約2,200〜3,000円)→ヌストルテ(Bündner Nusstorte) 1切れ CHF 6〜9(約1,200〜1,800円)→リヴェラ(Rivella) CHF 3.5〜5(約700〜1,000円)→スイスチョコレート(Schweizer Schokolade) CHF 3〜7(約600〜1,400円)→ホットチョコレート(Heisse Schokolade) CHF 7〜9(約1,400〜1,800円)→世界の料理図鑑トップ(台湾16品・スイス18品)→答「なれます。ただし副作用として、本当に行きたくなります」


写真:Wikimedia Commons(各ライセンスは出典台帳に全件記載・CC BY/CC BY-SA/PD)/ライブ映像:配信元公式YouTube/天気・時刻:Open-Meteo実データ


